五、(5)無念

第一章 浄水場喪失

 据え置き1㌧タンクが柿原水道本局に届いたのは、取り乱しながら平松管理者と会話を交わした電話を切った約2時間後のことで、私が外出したあとのことでした。私には、気持ちを落ち着かせて行かなければならないところがあったのです。

 それは、3日間の行方不明ののちに帰らぬ人となって見つかった、水道局職員A君の3人の肉親の葬儀、吉田地域にある彼の自宅で行われる告別式への出席です。

 あれは確か14時過ぎだったと思います。私は水道局の公用車、シルバーグレーのトヨタ・プロボックスを自ら運転し出発しました。そののち旧市長車だった黒のプリウスがお下がりで水道局にやって来たのですが、当時はライトバンのプロボックスが水道局の最高レベルの車でした。

 他にも告別式への参列を望む職員は多数いたはずです。ただ、災害対応を優先すべきと誰もが自問自答したのでしょう、誰もそのことを口に出しません。私は水道局職員達から香典を預かり単身で向かいました。

 それは、発災6日目にして初めて私が被災地に入ることになった時でもありました。現場主義の私や給水課長の仁村にとって、現場を見ることができないのは非常にもどかしいものでした。特に仁村は、水道技術管理者として〝中〟で多くの事を動かしています。そんな彼の分も、被災地の状況を目に焼き付けて来ようとも私は思っていました。

 国道56号を北上し、数日間通行止めとなっていた宇和島地域高串地区での土砂災害現場に差し掛かりましたが、そこは片側交互通行です。大型土のうの向こうには、大規模な表層滑りのような被災状況が見て取ることができます。その大量の土砂で埋まっていたこの国道が通行可能になったのは、とても大きいことでした。なにせ、それまでは被災し崩れそうな狭くてカーブの多い県道を通り、黒の瀬峠を越える迂回路しかありませんでしたので。

 プロボックスは知永峠を下って吉田地域に入りました。ここまでは高串地区での大規模な土砂災害以外大きな被害はありません。

 その様相が一変したのは吉田湾の湾奧に差し掛かったころです。あたりには土砂が堆積し、特に道路脇には高く積み上げられています。立間川や河内川が沿川に洪水をもたらせながら運んだ大量の土砂が、全域に堆積したのでしょう。私が通った時には道路部分の土砂は路肩に寄せられ、比較的スムーズな交通が回復していたのですが。

 その後、進行方向を西に変えて海岸線を進むと道路にはやはり大量の土砂があります。周りを見渡すといたる所で土砂崩れが発生しています。この土砂が豪雨の水で海岸沿いの道路まで運ばれ、そこから海までの狭い空間にある建物に行方を阻まれ堆積したのでしょう。いかに凄まじい雨だったのか、この状況を一見しただけでも想像に難くありません。

 土砂の残った道路を通り会場である彼の自宅近くまで辿り着きました。多くの車・多くの人が集まってきています。私は海岸沿いの少し広くなっている所に他の参列者の真似をして車を停め、少し離れた会場まで歩いていきました。途中、不幸な被災現場横を通って。

 それからの様子を記すのは差し控えたいと思います。私がA君を見つけて近づき一言、「悔しいね…。」と発した時、お互いが我慢できない感情に達していたという一点を除いて。

 告別式が終わり、往路と同じ道を引き返して国道56号の交差点に着きました。そこで帰路と反対側の吉田地域中心部方向にハンドルを切り、その様子を車中から少しだけ見ておくこととしました。国道56号は、先ほど同様かなり土砂が撤去されていましたが、一歩外れるとそこには大量の土砂が残ったままです。ここは平坦な市街地です。その市街地が泥で埋まっています。泥を流す水もありません。

 私は、運転して数十秒の距離にある吉田支所に開設している応急給水所の様子を確かめに行くのもやめました。水を切望している場所に入っていくのはまだ早い!と聞こえたような気がして、急ぎ帰路に就くこととしたのです。

ー この記事の原文は水道産業新聞2020年(令和2年)11月26日版(第5457号)に掲載されたものです ー


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