ゴールが近づく状況下にあっても、私が心身ともにまだ臨戦態勢だった背景には、のしかかっていた重圧があったのです。
多くの関係者の献身的努力により、驚くべきスピードで稼働し始めた両地域の代替浄水施設だったのでしたが、早期の通水を優先したことで日々様々な課題と向き合わざるを得ない状況でした。納期の間に合った機器類で構成されていた施設でしたので、安定稼働にはハード面を補う多くのマンパワーとともに、関係者全員の細心の注意が必要だったのです。
気を抜くと、断水が解消された区域の市民に再び困難な状況を強いることになってしまいます。そうなってはならない、そのような思いが私を含む関係者全員にはありました。
とある夜もトラブルが発生しました。〝とある〟と表現したのは、私のメモ帳への記載から漏れているからです。強烈な記憶として今でも私の脳裏にはっきりと焼き付いているこの件は、吉田地域への通水開始後間もない夜の出来事には間違いありません。ただそれ以上は思い出せないのです。記憶はあてになりません。やはり記録は大切です。
その夜、常に水道本局で現地の状況を見守っていた仁村給水課長へ、現場に詰めていた局職員から報告が入りました。のちに私は仁村から直接報告を受けることになるのですが、彼が自席で現場と電話する声は私の部屋にも聞こえてきていました。詳しい内容はわかりませんが、表情だけでなく声にもその時々の感情が表れる彼が、何らかのトラブルについて話をしていることは最初から私に伝わってきていました。
詳細については割愛しますが、どうやら水道局が担当する部分に関わるトラブルのようでした。各民間企業の関係者、そして南予水道企業団と宇和島市水道局の職員、誰もが各々の持つ知識を最大限発揮させながら乗り切っていたのでしたが…。
現地から逐一報告を入れていたのは前年までの給水課施設係長で、異動先の都市整備課から応援に来てくれていた保利係長でした。
彼から伝わってくるのは行き詰った状況のようです。仁村は察したのでしょう、現場の誰もが、水道本局で指揮を執る我々とは別次元の疲労の中にいるということを。彼は現場の関係者を一度水道本局へ呼び戻すことにしたのでした。
現場対応を仁村にほぼ任せていた私は、その電話が入る前、既に帰宅の準備を整えていました。ただ、頭の片隅に何か引っ掛かるものがあり、現場から関係者が戻るまで様子を見ることとしたのです。
それから約1時間後、時刻は24時近くだったでしょうか、水道本局2階の事務所入り口付近がにぎやかになってきました。保利を先頭に現場組が次々と帰ってきたようです。彼らに声を掛けた仁村に続き、私も部屋から出て彼らの元に近づきねぎらいの声を掛けました。どの顔にも疲れが色濃く映っています。
口数が少ない全員を仁村は給水課の協議台に導き、そして着座を促します。私は自らも着座した彼の傍らに立ちました。保利は仁村に状況報告を始めました。回りからも適宜補足説明が入ります。保利はいつも通り冷静で落ち着いた口調で説明を続けます。
一通りの説明が終わったのち、仁村や私は対応策についての意見や質問を発しました。ただ、現場では既に検討済みだったようで、否定的な回答がすぐに返ってきます。
それならばと、私からだったのか仁村からだったのか記憶は曖昧ですが、続いて口から出たのは、思いつきとも奇策とも彼らに捉えられかねないものでした。ここでは「力技」とでも表現しておきましょうか、その言葉が発せられた時、現場組の表情に小さな『ん?!』を私は感じ取りました。この微妙な反応、もしかしてその内容に呆れているんでしょうか。でも彼等は何かを考える表情に変わっていきます。そして少しずつ言葉が出始め、それが協議へと発展していったのです。一つの思いつきから、少しずつ少しずつ事態打開へ向けた形が見えてきたのでした。保利を含めた全員の顔が明るくなっていくのを見て、私は解決を確信しました。
ー この記事の原文は水道産業新聞2021年(令和3年)10月18日版(第5532号)に掲載されたものです ー
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