8月24日金曜日、相変わらず水質好転の気配が感じられない中、その推移についてのデータを公表しました。
また週明け27日には、市長室に副市長と南予水道企業団の竹本事務局長・保利浄水課長、そして私も加わり市長協議です。というよりも、市長は企業長、副市長は企業団議会議員としての立場での協議でした。南予水道企業団としては、両地域の二次仮設工事を円滑に進めるため、予算の裏付けを早めに取っておきたいという思いがあります。それには企業団議会による議決が必要です。この日の協議はそれに向けた下協議だったのです。
当時私はまだ企業団に籍を置かない立場でしたので、その場では言わばオブザーバーでした。そのため私はほとんど発言することもありません。翌月の12日か13日には議会を招集し、企業団を宇和島市とともに構成する八幡浜市や西予市・伊方町に対して状況を説明し、同意を得ることに全力を尽くすことが決まりました。企業団発足後、1期工事分を含めてこれだけ事業費が必要だったことは無かったことでしょう。そのため後日開催された議会では、定められている各市町の負担割合に応じた新たな負担に対し、被災を免れた構成団体の一部から異論が出たそうです。議論を重ね何とか認められたそうですが、一部事務組合、企業団というものの目的・理念が問われた場だったようです。
さて、その頃の私は手詰まり感から、三間地域での飲用制限長期化の可能性も覚悟し始めていました。ただ一方では、この翌日に最後まで残ってくれていた松山市の支援が終了するなど、対外的には大きな節目を迎えていたという段階でもありました。そんな状況下、私は何らかの一区切りが必要と思い始めていたのです。
私は、発災からその日まで惜しみなく支援を続けてくれた方々へ、一応の区切りとしてのお礼状を送ることを思いつきました。発信者は私、そして宛先は水道事業体ならば水道事業管理者や局長など、各組織の現場トップに向けたものです。
市長や副市長の了解を得たのち、支援終了と同時に発送が可能となるよう、私は自ら文案を作成し、また発送先の整理などその準備を始めました。そして松山市の最後の職員2名が宇和島を離れた8月28日の15時、私からの指示を受けた業務課職員によって、お礼状は宇和島郵便局に持ち込まれ発送されました。『気持ちよ届け』との私の思いとともに。
その3日後の8月31日、思わぬ電話が入ってきました。電話の相手は倉敷市の尾谷水道事業管理者です。自ら大きく被災しながらも応急復旧に向けた支援をしてくれたあの倉敷市の。尾谷管理者は、私からのお礼状に対する〝謝意〟を私に伝えました。そして追加の支援が必要ならばヒトでもモノでも何でも言ってくれ、とも。そんな厚情に、私はただただ恐縮しお礼を繰り返し言うことしかできませんでした。
この時だったのかもしれません、全ての支援者に直接会ってお礼を言いたいと考え始めたのは。
ー この記事の原文は水道産業新聞2022年(令和4年)2月3日版(第5557号)に掲載されたものです ー
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