四、(5)水源と南予用水

第一章 浄水場喪失

 南予用水について少しだけ触れておこうと思います。

 愛媛県の南予地方は昔から水源に乏しい地区でした。例えば宇和島市は県内最初の近代水道を大正15年(1926年)に供用開始したものの、慢性的な水不足はずっと続いていたのです。

 私がはっきり覚えているのは、昭和42年(1967年)、私が小学校2年生の夏のことですが、渇水によって1日にたったの3時間だけの給水となったことです。その頃の私の家には風呂は無く、しかも毎日銭湯に通う習慣が無かった家庭だったため、子供の私はお湯の入ったタライを風呂代わりにし特に不便を感じていませんでした。ただ今でも覚えているということは、不自由を感じていた証拠なのでしょう。

 そんな宇和島市が水不足から解放されるのは、昭和51年(1976年)、私が高校に入学した年の須賀川ダム完成まで待つこととなったのです。でも、南予全域で見るとまだまだ解消途上です。

 南予用水はそんな南予地方の慢性的水不足、これには柑類栽培のための農業用水も含まれていますが、それを解決する切り札となったのでした。

 その水源となる、須賀川ダムの10倍近くの容量を持つ野村ダムは、今は西予市の一部となっている旧野村町に造られました。当初は渡川(現在は四万十川に改名)水系からの分水を愛媛県側の関係者は目指していたのでしたが、お隣高知県へ流れるこの有名な水系からは結局分けてもらえなかったのです。そこで次に白羽の矢が立ったのが肱川水系、これならば他県との調整は不要で、その適地として選定されたのがこの旧野村町だったのです。

 当時の記録を以前少し読んでみたのでしたが、やはり水の問題は一筋縄ではいかなかったようです。ここに記すことをためらってしまうような、アブノーマルな記述もありました。ただその真偽はもはやわかりません。

 この野村ダムの完成とそれを水源とする南予用水がもたらしたものは、旧吉田町・旧三間町の飲用水不足の解消や、南幹線路による旧宇和島市での須賀川ダムを補完する安定水源です。そしてもっと大きな役目を担ったのが北幹線路です。旧明浜町から旧三瓶町の全域、更には八幡浜市を経て佐田岬半島の旧保内町・旧伊方町・旧瀬戸町そして最先端の旧三崎町までのほとんどの地区に送られました。そこでは飲用水だけでなく、農業用水を含めた広域的・多目的な用水となり、安定的な飲用水の確保に寄与するとともに柑橘王国愛媛の礎となったのです。

 南予用水の話はこの辺で置き、代替浄水施設の話に戻ります。

 最大の問題は、三間地域の原水をどうするかということでした。

 吉田地域と三間地域は山地で隔絶されています。これまで使っていた三間方面への送水ポンプは、吉田浄水場と共に被災し流用することができません。また、新たなポンプを早期に入手することも絶望的でした。

 そこで目を付けたのが、水源に乏しいゆえに三間地域に多く存在する農業用ため池です。私はこの発案が誰によるものなのか知りませんが、最初に聞いたとき、『水量は足りるのか、その候補となった中山池の水利組合はOKをくれるのか、そして何より水質は大丈夫なのか』との心配が頭をよぎりました。ただ反対などできるわけありません。一刻も早く水を蛇口から出すには、それが最善だともすぐに理解出来ましたので。

 吉田地域・三間地域ともに、市長室での協議によって即座に方針が決まりました。この案を早急に進めるということが全会一致で。

 この方針はトップシークレットであったのはもちろんのことです。水利組合の同意を含めてこれから山ほどの調整事項があり、その結果次第ではこの方針を変えざるを得ない可能性もあったのですから。

 ただ、結果的に両地区ともにこの方針通り実行に移されることとなりました。その調整の立役者は南予水道企業団の竹本事務局長。7月15日を目標として定められた中山池水利組合への承諾取り付けの交渉を含め、彼がこの時点からの一週間どれほど走り回ったのか、結果が全てを物語っています。

ー この記事の原文は水道産業新聞2020年(令和2年)11月2日版(第5452号)に掲載されたものです ー


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