7月11日、発災5日目の朝です。この日は比較的動きの少ない1日でしたが、前に向かう大きな動きがあった日でもありました。
午前10時頃、私は自席で対外発表用の資料作りをしていました。
例えば応急給水所の展開状況を地図上に表した図面などです。このようなグラフィックを交えた資料作りに長けた職員は宇和島市には少なく、水道局も同様でした。私と言えば本来の専門は造園職です。自分で言うのも何ですが、公園や都市計画施設など、図面や絵などでその魅力を相手に伝えながら事業を立案・認可・実施していくことに長けた職種です。この災害で作成した図面や説明資料は、局長の私が自ら作成したものが大半でした。ドロー系やペイント系のグラフィックソフトを駆使して。
見方を変えればおそらくこの点は反省点でもあることでしょう。判断力を鈍らさせないためには資料作成などの実務を極力配下の職員に任せ、全体の状況を見逃さないよう注意を払うことに集中すべき、そう言われる方がほとんどではないかと思います。
ただこの緊急時はそんなことなど言っている場合ではありません。やれる人間がやれることを効率的に行う、それが災害現場の最優先事項だと今でも思っています。この災害対応が終わると、水道局職員の資料作成スキルアップを厳命したのは間違いありませんが。
それと現場指揮官自らの資料作成は、副次的に大きなメリットを私自身にもたらせてくれました。
作成の際には各担当者からの情報を集めなければなりません。報道発表の際には自ら集めた種々の情報が生きてきます。記者会見やぶら下がりでの報道関係者からの質問に、堂々と大きな声で自信を持って即答することが、自ら集めた情報のおかげで可能となったのです。部下が作成した資料だけを元にしていれば、人不足のため一人で臨むそんな取材で即答が可能であったでしょうか。
現場トップから発せられる自信を持った大きな声は、この時の報道関係者には安定感を伴って受け入れられているようでした。誰もが私の言葉を信用してくれているように。私がテレビを見る時間はほとんど無かったのですが、それでも伝わってくる各社からの報道を見てみると、疑念を抱かれた報道内容にはなっていなかったようですので。
そして、仁村・鴨脇両課長を含め水道局職員も生身の人間です。多忙さで心身ともに疲労が蓄積してきてきます。そんな職員個々の体調の把握が、情報収集と同時に可能となり、超多忙な中でも職員の健康を維持することができました。
また私自身、好きなグラフィックソフトを使って資料作りに熱中することで、気持ちの落ち着きと安定を継続することができたのも、ひとつのメリットと言えるでしょう。
そんな私に電話が入ってきました。私が応対する初めての相手、仙台市水道局です。受話器の向こうは給水部長の武橋さんです。
ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、江戸期の宇和島は伊達藩でした。そう、仙台藩と同じ伊達家です。
あの有名過ぎるほど有名な伊達政宗の、第一子秀宗が宇和島伊達家の藩祖なのです。秀宗が仙台伊達家を継がなかった理由は、例えば第一子でも正室の子ではなかったから、とか、一時的に豊臣姓だったことから仙台藩主にふさわしくないとされた、とか、いろんな説があります。歴史のお話はここでは封印しますが、今も歴史姉妹都市として交流が続く、400年以上に渡る深い縁の仙台市からの電話です。
武橋部長から発せられたのは、必要ならば仙台市水道局から技術者を応援に向かわせる、そのような今思い出しても鳥肌が立ち涙腺が緩む内容だったのです。
しかもその相手が兄・姉のような存在の仙台市、市長から現場の判断を任せられていた私が、即答で支援をお願いしたのは言うまでもありません。
武橋部長はその答えを予想していたのか、2日後の7月13日には先遣隊を向かわせるとの力強い言葉を私の全身に返したのでした。
ー この記事の原文は水道産業新聞2020年(令和2年)11月9日版(第5453号)に掲載されたものです ー
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