災害対策本部会議から帰局し昼食を取っていたところ、自席の電話が鳴りました。局の代表経由でつながった相手は、日水協愛媛県支部都市松山市の公営企業局平松公営企業管理者でした。
私よりずっと年上の平松管理者は、発災当初から宇和島市の状況を常に気にかけていました。
平松管理者と初めてお会いしたのは平成29年(2017年)の4月、日水協愛媛県支部第1回幹事会に常任幹事都市の代表として出席した際のことです。温厚そうなその佇まい、後で聞いた話では前職は愛媛県警だったとのことでしたが、それを感じさせることなく楽しく話をする姿が印象的な方でした。自身の周りにきちんとある垣根を普段はその存在を消して人と付き合っているとの第1印象を私は持ち、半ば一方的にその見えない垣根の中に私は入っていったのでした。
その後も酒の席を含め何度も会い、今回の災害でも真っ先に支援をお願いした平松管理者でしたが、その口から出た言葉はその時の私にとって少々ショッキングなものだったのです。
内容は、日水協のとある県支部から苦情が届いたというものでした。
事の重大さから辺り構わず給水車の支援をお願いし、そのかいあってか、自衛隊に加え県内外の水道事業体名が記された多くの加圧給水車が市内を走り回っています。長期断水を余儀なくされた中、そのことがやれる対策はやっているというアピールになっていました。自然、私ども水道局に対する市民の目も好意的になっていたのです。
その加圧給水車を給水所代わりに運用してはもったいない、給水所には据え置きタンクを設置し貴重な加圧給水車は充水に専念すべきだ、との苦情・意見です。
支援する側には、そのような効率を考えた運用をしてもらいたいという要望があるのは私にも理解できます。逆に私が支援側であれば同じように言ったかもしれません。
ただ当時、発災3日目に注文した大量の据え置き1㌧タンクは、おそらくどこの被災地からも発注があったのでしょう、注文から3日を経てもまだ届いていません。実はその日の朝も担当者に確認するほど、私の頭の中には大きな存在となっているものだったのでしたが。
そんな重要でデリケートな事だけに、そこを突かれると私の思考回路は制御不能となってしまいました。何をどう平松管理者に伝えれば良いのかわからなくなり、ただただ声を詰まらせながら、常に被災地を気にかけている平松管理者へ詫びるしかありません。
その時の感情としては謝意・詫び・無念等多くのものが一気に押し寄せてきたような記憶があります。中でも大きかったのは、『受援側の被災地は理想的に物事を進めることができない。やれることをやっているので、支援側はもどかしくとも何とか我慢してほしい』ということだったと思います。これは受援側のわがままでしょうが、その時の体制では据え置き1㌧タンクが絶対的に不足している状況から、加圧給水車の一部は応急給水所そのものになってもらわざるを得ないという事情があったのです。
多くの感情の中には後悔もありました。苦情が届いた背景には支援側への情報提供不足があります。据え置き1㌧タンクの不足状況を含め、その時に宇和島市水道局が置かれていた状況をきちんと伝えていれば良かったのです。同じ苦労を分かち合う水道マン同士、きっと事情を汲み取ってもらえたはずですので。その情報提供が後手に回ったというのは、先手を好む私にとって非常に悔しいことだったのでした。
ー この記事の原文は水道産業新聞2020年(令和2年)11月19日版(第5456号)に掲載されたものです ー
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