二、(6)宇和島市管工事組合の来局

第三章 一日でも早く

 

 発災19日目の7月25日水曜日、通水時期前倒しの情報が市民に行き渡る頃合いを見計らい、朝8時50分に私は前市長へ電話を入れました。既に新聞・ニュースなどによって、多くの市民と共にこのことを知ったことでしょう。

 前市長からの2つのアイディアが、市長の最終的な判断で見合わされることとなったお断りと、これまでの協力に対するお礼の電話です。もちろん、廃案ではなくセカンドプランとして持っておくということも付け加えて。

 10時10分、宇和島市管工事協同組合の来局です。これからの流れなどついて仁村給水課長が電話で断続的に打ち合わせを進めていたのでしたが、顔を合わせての正式な要請となります。本来ならばこちらから伺わなければならないのですが、事情を酌み取り先方が出向いてくれたのです。これでやっと私の口から、吉田地域を中心とする応急復旧体制の準備を依頼することができます。

 その時に問題となったのが、応急復旧用の資材をどこに集積しておくかということです。私の頭にまず候補として浮かんだのは吉田公園でしたが、同公園も土砂災害に遭っていて、しかも被災を免れた区域は既に他の用途で使用中とのことです。そのため私は他をあたり始めました。

 私が〝モノ〟対応で調整を行っている頃、管工事組合の加藤理事長は〝ヒト〟の確保を進めていました。宇和島市の組合構成員だけでなく、松山市の管工事組合にも声を掛けていたのです。

 松山市管工事業協同組合は、加藤理事長からの要請に対し非常に前向きな姿勢だったそうです。ただ、地元の水道事業体からの正式要請が必要との業界ルールがあるため、松山市公営企業局にお願いしなければなりません。また、現地に入る組合員を監督する発注者側の人員張り付けも必要との意見も出たそうです。吉田地域での応急復旧は、多くの班編成で臨むことになるでしょうから、作業効率などを考えると、そのそれぞれへの発注者側監督員配置が確かに必要となってくるでしょう。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、経験したことの無い領域に進んでいくためには、より多くの人たちからの意見を集約する必要があるということに、改めて気づかされました。

 私はまず駐在中の松山市湯野副部長へ耳打ちし、その後すぐに電話を平松管理者へ入れました。そして松山市公営企業局から松山市管工事業協同組合への依頼文発出などの要請を正式に行いました。

 お天気というものは思うようになってくれません。あの豪雨以降、猛暑と少雨が続いています。

 その影響が表れてきました。三間地域代替浄水施設の水源となる中山池からの取水については、既に南予水道企業団竹本事務局長が地元水利組合の了解を取り付けていたのでしたが、この連日の日照りによって水道用水取水が農業用水に与える影響を懸念する声が、一部水利権者によってもたらされたそうなのです。

 水利組合長と竹本事務局長との調整の結果、宇和島市水道局からも職員が同行し地元説明会を開催することとなりました。

 水利組合との合意が白紙に戻れば、その影響は計り知れません。『うまくやってくれ』と私は託すしかありませんでしたが、後日この説明会は成功裏に終わります。一人一人がそれぞれの役目を果たしてくれています。

 18時からは定例の本庁災害対策本部会議への出席です。

 被害が甚大な奥白井谷方面への道路が、通行可能となったとの報告がありました。また、発災3日目から応急給水活動を行ってくれていた陸上自衛隊は、日水協の支援体制が安定してきたことで順次撤退することになりました。まずは白浦応急給水所から畳むようです。

ー この記事の原文は水道産業新聞2021年(令和3年)5月20日版(第5497号)に掲載されたものです ー


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