発災22日目の7月28日土曜日は、台風12号接近に伴い拡大版本庁災害対策本部会議が11時30分から開催されました。出席者には須賀川ダムを所管する事務所の門原所長の顔も見えます。
会議は進み、大雨に備えた須賀川ダム事前放流の件が議題に上りました。発言者は市長です。7月豪雨災害では西予市の野村ダムと大洲市の鹿野川ダムで、それぞれのクレストゲートからの緊急放流によって両市が広範囲に浸水し、結果的に多くの人命が失われています。そのため、事前放流というものがクローズアップされていたのでした。
宇和島地域中心部の水がめ須賀川ダムは、野村ダム・鹿野川ダム同様、利水・治水を兼ねた多目的ダムです。宇和島市の中心市街地を守る洪水調整の機能も併せ持つダムです。その須賀川ダムでの事前放流の考え方について門原所長が回答しました。利水側との調整が進んでいないと。
市長が事実関係を私に確認しました。私はすぐさま反論します。以前事前放流について打診があった際、決して拒絶はしていないと。それどころか、治水にも配慮しながら折り合いをつけていかなければならないと回答しているはずだとも。
事前放流の件は私が局長として赴任したのちに、ダム管理の所管事務所側からその是非について打診があったのでした。この時の私の立ち位置は利水側です。ただ私の前職は都市整備課長で治水側でした。また、課長就任以前も都市整備課の一職員として長年風水害と闘ってきたことから、事前放流の必要性は誰よりも知っているつもりでした。そのため、放流後の渇水を心配していた水道局たたき上げの両課長に対し、利水・治水は一体で考えなければならないと諭し、宇和島市水道局の基本姿勢について軌道修正した自負があったのです。
難解な発言を続ける門原所長の言葉に割って入ったのは、川下危機管理課長でした。現時点でも一定の治水容量は確保しているでしょうと。そのとおりです。門原所長はその点に触れていません。川下課長の一言で事前放流の議論は収束しました。でも門原所長の発言について正す間もなく次の議題に移っていきましたので、私の心の中にはモヤモヤが残り続けました。
なお須賀川ダムでは、平成17年(2005年)9月の台風14号襲来に伴う大雨の際、クレストゲートからの放流を行う寸前の状況に達していました。そしてそれが実行されれば、宇和島市の中心市街地の概ね半分が浸水し想像を絶する甚大な被害が発生すると予想されました。
当時は1市3町の合併で新しい宇和島市が誕生し、その最初の市長・議員を決めるための選挙中だったため、市長・副市長は不在でした。そのため、当時公園緑地係長になったばかりの私は市長職務代理者の総務部長に命じられ、貼り繋げた地図上に浸水想定標高の線を入れていったのです。避難対象区域を設定するための資料として。
幸い放流30分前に降雨が弱まり放流は回避されたのでしたが、避難呼びかけなど準備の進行とともに緊張が高まっていったのを今でもはっきりと覚えています。
翌7月29日日曜日、発災23日目の午前9時から再び本庁災害対策本部会議が開催されました。西進しながら三重県に上陸した台風12号は、勢力が衰えた上に宇和島は進行方向の左側に入り、警報は発令されたものの大きな影響は幸いにもありません。
ただこの台風12号対応から、宇和島市、特に大きな土砂災害に見舞われた吉田地域と宇和島高光地区において、住民の避難誘導が大きく変わりました。
端的に言えば、これら地域・地区では他地域に比べて常に警戒が一段階上になったということで、例えば大雨注意報が発令された段階で高齢者避難が開始されるなどの措置が取られることになったのです。
その際、避難困難者をどうするかという件も議論の舞台へ上がりました。結果的に宇和島市の公用車で職員が出向き搬送することが決まったのでしたが、本庁でもそれへの対応や災害ゴミの仮置き場運営など、こののち徐々に作業量が増えていくこととなります。ただ部局による負担差が大きかったとあとになって聞かされました。
ー この記事の原文は水道産業新聞2021年(令和3年)6月3日版(第5501号)に掲載されたものです ー
《無断転載はお断りいたします。》
*登場する人物や組織に対する私の意見・感想は、個々の評価を意図したものではありません。また、臨場感を伴わせて全容をお伝えするために人名を記載していますが、文面に対する人それぞれの捉え方に配慮し全て仮名としています。ご理解のほどよろしくお願いいたします。
コメント