発災25日目の7月31日火曜日は午前10時から臨時議会の開催です。でも私は議場にいません。鴨脇業務課長に壇上での専決予算議案提案説明を含め全て任せ、柿原のとある病院にいました。認知症が進みつつある母の通院予定日がこの日だったのです。その頃の私は内憂外患状態、内(家)では母の認知症対応、外(職場)では災害対応でした。この日は妻も仕事でしたので私が付き添いです。
母は近所の内科をかかりつけ医としていていました。そこで処方されていた薬が合わず、その影響からか老人性の鬱を発症しました。治療を進めても不安定さが過激になっていったことから、私のかかりつけ医、同級生の内科医院に転院させ治療法を薬と共に変更し、そして彼の勧めで柿原にある専門病院も受診することになったのです。おかげで症状は安定してきましたが、鬱の後遺症なのでしょうか逆に認知症が進行し始めたのです。そんな中での定期通院日、この日行かなければ薬が切れてしまいます。私は市長に相談した上で母の通院介助を選んだのでした。
そんな母、この約半年後に87歳でこの世を去りました。朝起きて来ないので部屋に行ってみたら布団の中でまだ眠っています。起こそうとしても目を覚ましません。目をつぶったまま永遠の眠りについていたのでした。母はその前日まで自分で買い物に行き料理をし、また一人で入浴も済ませていました。私の方針として、自分でやれることは辛くても大変でもやらせるようにさせていたのです。時には半泣きになりながら、そして私に辛さを訴えながらも、やりきって逝ってしまったのでした。私のことを鬼のように思っていたかもしれませんが、人に頼り始めたらあとは坂を転げ落ちるだけ、私は鬼と思われても構わないと覚悟しての対応でした。
前の段落を書き終えてみてわかりました。災害対応の最前線での私の振る舞いと何だか似ています。豪雨災害ののち、市長が私のことを時々鬼という接頭語を付けて「軍曹」と呼んでいました。私からそのような鬼の雰囲気を感じたのでしょうか。
さて、議場で鴨脇は多くの議員に聞かれたそうです。「局長はどうした?」「石丸は大丈夫か?」などと。おそらく鴨脇は彼特有の人を安心させる笑みを浮かべながら、各々に上手に答えてくれたのでしょう。私が議会を欠席していたのが特に問題とはならず、かえって水道局と私の窮状をアピールする結果となったのですから。
予算議案は無事可決です。鴨脇課長、初の壇上お疲れ様でした。緊張したと言っていましたがもうあなたは若手ではありません、もっと早くからこういう経験をさせておいたほうが良かったかもしれませんね。いつまでも慣れた者が慣れたことをやっていたら、組織は活性化・成長しませんので。
ー この記事の原文は水道産業新聞2021年(令和3年)6月21版(第5505号)に掲載されたものです ー
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