8月9日に話を戻します。この日12時45分、今治市水道部の矢部部長がノックの音と同時に私の部屋の入り口に現れました。通常、扉は開けっ放しでしたので。先日の電話のとおり、わざわざ訪ねてきてくれたのです。
1歳年上の矢部さんの回顧は既に記していますが、この日も三間地域での苦しい状況を私から聞くや、「追加支援が必要ならいつでも言って」と、相変わらずの頼もしく嬉しい言葉を私に発しました。
それから約3年後となるこの手記執筆時、その頃想像だにできなかった新型コロナウィルスが猛威を振るい、県を跨ぐどころか県内の移動まで自粛が求められています。そんな動き辛いご時世ですので、私はほとんど毎日自宅兼事務所でデスクワークを続けているのですが、実は先日広島市内での所用が入り、感染リスク低減のため、公共交通機関を使わずオートバイでしまなみ海道を通って向かいました。
しまなみ海道、そしてその四国側の起点となる今治を通るのは定年退職後初めてのことでした。退職の少し前がちょうどコロナ禍の始まりだったこともあり、出たがり屋の私も巣ごもりせざるを得なかったのです。
今治イコール矢部さん、私は帰りに矢部さんが再任用で就いた職場に行ってみることにしました。所用を終え広島市を出発、そしてしまなみ海道に入る前に電話を入れました。私は電話に出た女性に〝一応〟尋ねました。矢部さんはまだそこで働いているかどうかを。その女性は「少々お待ちください」と通話を保留したので、私はてっきり電話を転送しているのかと思ったのでしたが、再びつながった電話から聞こえてきたのは同じ女性の声です。矢部さんは既にそこを退職していたのでした。
遅かった!もしかして、年金受給年齢に達したから退職したのでしょうか?その後の消息や連絡先を訪ねようかと思いましたが、私はやめました。個人情報の扱いを巡って電話の女性に迷惑をかけると思い、私は礼を述べて静かに電話を切りました。そして私は、会えなかった喪失感を抑えながら今治を素通りしたのでした。
そういえばこの災害での断水が解消したあと、私は支援のお礼を伝えるために矢部部長を今治市水道部に訪ねましたが、その際、矢部さんの部屋の壁には宇和島の断水に関する新聞の切り抜きが幾つも貼られていたのを目にしました。発災からずっと、常に宇和島のことを気にかけてくれていたのでしょう。新型コロナ禍が落ち着いて動き回れる時がやってきたら、その同士を探しに今治を再び訪れたいと思っています。
ー この記事の原文は水道産業新聞2021年(令和3年)11月22日版(第5541号)に掲載されたものです ー
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