そういえばこの2箇月後に所用で東京を訪れた際、宇和島市役所への転職前に在籍していた会社で上司だった10歳上の伊能さん、私と入れ替わりに退職し、既に自分の事務所を立ち上げていたそのまた元上司の辻田さん、そして私、その造園をルーツとする3人で久しぶりに会食することになりました。平成2年に当時の埼玉県大宮市で行った私の結婚披露宴へ両氏ともに列席してもらって以来ですから、顔を合わせたのは28年ぶり、会食となると退社以来ですから実に30年ぶりのことです。
その辻田さんとは、前の会社では上司・部下としての関係ではなかったのでしたが、私にとって大学同学科の大先輩であり、また、同氏が独立したのちも何かと仕事で助けてもらいに何度も事務所へ通っていたことから、私にとっては師匠のような存在です。
7年間勤めたこの大手建設コンサルタントでは、小規模な公園緑地の仕事ならば実施設計を含め何とか独り立ちできそうな水準まで達していた私でしたが、同時にこの2人が手がけ始めていた〝仕事〟の補助という役目も持っていました。
それは河川環境整備を始めとした、造園の視点からアプローチする水政策の仕事です。当時は 〝親水空間〟〝ウォーターフロント〟という言葉が出始めた頃で、現在ではあまり聞かなくなった〝リバーフロント〟という言葉が当時の建設省で使われ始めたのもこの頃でした。まだ途中までしか開通していなかった地下鉄半蔵門線に乗って、「リバーフロント整備センター(現在は公益財団法人リバーフロント研究所になっているようです)」に何度も通ったのを思い出します。
28年ぶりに再会した両氏は、時間が止まっていたのかと錯覚させられるほど見た目は変わっていません。また仕事のほうも、内容・役目が変わった私と違って同じ世界に身を置き続けていました。特に辻田さんは、東京玉川上水を旧来の分水網で循環させようと画策する会議のお世話役をやっていて、皇居内濠への導水実現もその延長上に描いているようでした。以前同様、親水を前面に押し出した水政策への関わりです。伊能さんも私の退職から数年後に退職し起業、現在も順調に会社を成長させています。降って湧いたような私の転職帰郷が、その出だしを狂わせてしまったのでしたが…。
さて、懐かしい思い出話とともに、私はこの30年間のことをそんな両氏に色々と聞かれました。そして今回の豪雨災害での対応に話が及んだ時、私は断水解消の決め手となった代替浄水施設のことに触れました。その直後のことです、急に辻田さんは視線を上方に移し、独り言を呟きながら何かを考え始めたのです。辻田さんは親水からアプローチを続けている壮大な構想に、別のものをくっつけようとしたのです。さてそれは?もう皆さまお気づきでしょう。三間地域代替浄水施設の水源は、当初農業用ため池でした。そうです、玉川上水から皇居内濠への水循環実現に、災害時の利水を融合させてみてはどうかと考え始めていたのです。
土石流での浄水場喪失は前代未聞のことでしたが、この災害対応の中で私が最も無くなって困ると感じたのは、浄水場そのものではなく原水のほうでした。原水さえあれば、今回のような柔軟性・機動性に富んだろ過装置を設置し、飲用水を確保することができます。今は中・下流部での利水上の役目を終えている玉川上水に災害時における都心の水源の役目を負わせることで、親水からのアプローチでは少々弱いかもしれない構想に、強い必然性を加えようとしたのでした。
その時私は両氏と〝異業種〟になってしまっていましたが、利水・治水・親水、それらはお互い無縁のようで実は深く関わり合っている、そんな水政策の基本を、水道局での利水、都市整備課での治水、そして前の会社での親水、三つの〝水〟に関わってきた私に両氏は再認識させてくれたのでした。
余談ですがこの日、私が30年以上にわたって解くことのできなかった辻田さんからの宿題について、その答えをようやく聞くことができました。その宿題とは、「河川沿いの遊歩道へのフェンスはどのようなデザインが良いか?」で、場所は当時親水公園の設計に関わっていた東京板橋区の新河岸川沿いの小豆沢地区です。その宿題に対し、当時私は色々なデザインのスケッチを描きました。地域の特徴などを加味しながら描いては見せ描いては見せを繰り返したのでしたが、結局その答えを得ることなく宇和島市へ転職Uターンとなったのです。
正解はその後多くの経験を積んだ私にとって、いくつもの感嘆符を伴う『そうか!!!』と思わせられるものでした。
それは「何も描かないのが正解」との、私の思考回路を暫しの間止めてしまうほどのものでした。デザイン的なものなどではなく、河川管理という視点からはそもそもフェンスは必要が無いという落ちです。その正解、伊能さんはわかっていたのでしょうか?我々のやり取りをニコニコと眺めていたのですが。
実際には公園管理の視点からフェンスは設置されたのですが、そちら側だけから考え続けていた私は、この30年越しの宿題によって視野の狭さを改めて思い知りました。歳を重ねてもなお、己の未熟さを痛感させられる回答でした。
ー この記事の原文は水道産業新聞2022年(令和4年)1月6日版(第5551号)に掲載されたものです ー
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