11) ケルン編(1989年版 西ドイツの街並み)

過去旅のご紹介

*** 12 Mar.1989 ***
 寒かったハンブルクからDBで南下してケルンに到着しました。

 駅から出るとそこにはたくさんの日本人の姿が。すぐ横にある大聖堂目当てなのでしょう。
 何となく日本人を避けたかったこともあり、再びDBに乗って近くのボンに行ってみることにしました。
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 ボンは当時の西ドイツの首都です。着いた頃には気温もかなり上がって暖かくなっていましたが、ボン2,000年祭というフェスティバルが行われていて、街中が人で溢れかえっていました。
 夜行列車に疲れていたのと、気温の上昇に体が追いつけなかったせいか、人混みに耐えられなく、それならまだ日本人が多くてもケルンのほうが良いかな・・・と、DBに乗ってケルンに戻り、中央駅のコインロッカーにバックパックを放り込みました。
 ボンでの写真が皆無なのは、気分がいかに乗っていなかったのかという証明でしょうか。
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 大聖堂と反対側の出口からライン川方面に向かいました。
 ケルン中央駅のすぐ横には大聖堂!右のドームが駅です。
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 ライン川です。

 南ドイツで巡り歩いたドナウ川はその上流区間でしたが、ここはライン川の中下流、当たり前ですが全てが違っています。

 右の車はマツダのカペラ。当時のマツダヨーロッパ戦略車だったと思います。
 その頃の私はこれの真っ赤なハッチバック車に乗っていましたが、ホントにこの車を西ドイツではよく見かけました。
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 この鉄橋を渡って対岸に行ってみます。
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 結構人の往来がありました。
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 振り返ったら大聖堂!
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 対岸はメッセ。この日は閑散としていました。
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 メッセ側から大聖堂を望みます。威風堂々という言葉がぴったりでした。でも露出不足で画質補整をしても色が出ていません。
 残念。。。
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 大聖堂に戻ってきました。
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 今度はライン川と反対方向の街歩きです。

 さりげない植え込みですが格好良い。

 それと様々な規模の緑地。

 そして広場。贅沢な空間の使い方ですね。
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 “ドイツスタンダード”の住宅地。
 見慣れてしまって感動も薄れてきた頃でしたが、今あらためて見るとやはりさりげなく隙のないデザインですね。
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 商業地です。ここには珍しく写真正面のような無粋な建物がありました。
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 でも、“今”の向こうに“昔”が見える。

 この広告板は周りの伝統の空間に融け込んでいます。このような工夫がそこら中にありました。
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 街のいたるところに広場があるのも“ドイツスタンダード”。しかも看板・広告は最低限で秩序がとれています!
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 日本と違って、舗装材が主張しすぎず景観を台無しにしてません。
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 さて今日の宿を取らなければ。
 この日は老婦人が経営している小さな宿を取りました。

*** 13 Mar.1989 ***
 朝食をとりながら、宿の主人と少し話をしました。
 その老婦人は人なつっこく、壁に掛けている第二次世界大戦中の破壊された街の写真を見せながら、“Japanese, My Friend!”と言ってくれたのです。
 西ドイツの人は同じ敗戦国の日本人に、親しみを感じてくれているという話を聞いたことがありましたが、ホントだったんですね。
(Apr2020追記:こんな感情を抱くドイツ人は最近少数派のようです。いやむしろ逆に・・・。)
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 ケルン中央駅の駅前通りです。都会であるにもかかわらずこの景観!個より公の意識が強くなければ絶対に無理でしょう。
 ケルンだけじゃなく他の駅でも同じでしたが。
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 ちなみにこの23年後この地を再び訪れた際、この駅前は様変わりしていました。この道路はものすご~く広い歩行者用の駅前広場の一部となり、更に“公”の色を強くしていたのでした。
 ドイツって凄いですねー。。。

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