7月8日の夜遅く陸上自衛隊から私宛ての電話です。本庁の誰かが私を連絡先として伝えたのでしょう。翌日の早朝、応急給水支援隊が宇和島に到着するとの突然の連絡です。水道局への案内を望むとのことでしたので、私は本庁で待ち合わせることを伝えました。
7月9日、発災3日目の朝5時半、陸上自衛隊の部隊はほぼ予定通り到着しました。私は早速柿原の水道本局へ案内します。巨大な輸送車で1㌧タンク台車をけん引しての支援です。人命優先で行方不明者の捜索にあたって下さっている陸自、この豪雨災害の甚大な被害に対し増派してくれたのでしょう。当初は給水支援はできないと判断していたようでしたが、飲用水不足も人命にかかわる問題であるとの判断があったのかもしれません。
柿原水道本局は須賀川ダムの直下にあります。そこに入るには須賀川左岸から右岸への橋を左岸側道路から直角に曲がり、渡りきった後にまた直角に曲がる必要があります。狭い道路や橋を曲がり切れるのか心配なところでしたが、隊員同士の誘導等で何とか2カ所を曲がり切り水道本局へ到着しました。
通常は充水のための大型給水栓は1カ所だけ使用するのですが、その頃になると、3カ所の大型給水栓フル稼働での運用が始まっていました。そこへ誘導し充水が完了したのち部隊は吉田方面へ移動し、早速JA立間中央支所に応急給水所を開設してくれました。このように少しずつ少しずつですが、応急給水所の展開が進んでいきます。
一方、応急給水所の展開が進むと目立ってくるのが不足する現地要員です。この日は本庁職員が、吉田・三間地区それぞれ4名ずつ派遣されることとなっていましたが、まだまだ、いや全く足りません。三間支所職員の応援が加わっていたものの、水道局職員が不休で対応にあたることで何とか運営体制を維持していました。人手不足の悩みは解消できません。
この運営体制を取り仕切っていたのが、鴨脇業務課長でした。 応急給水や応急復旧の司令塔を仁村給水課長とするならば、彼はその他の全てを束ねる後方支援の司令塔です。
奉職以来ずっと水道局の事務方一筋、「カネ」のことは彼に任せていれば安心です。料金改定を2回も手掛けた鴨脇ですが、実は十数種の資格保持者でもあり、中には秘書検定2級というのもあります。
水道局へ異動したばかりの何もわからない私に、秘書さながら多くのレクチャーをする姿に驚き感心したのでしたが、のちにその事を聞いて、なるほどと納得したものでした。
応急給水所が増えるとそれぞれに据え置くタンクも不足してきます。誰もそのことに頭が回らなかったのでしたが、やっと私の頭にそのことが浮かび、早速可能な限りのタンクを購入するよう指示しました。ただ、入荷まで時間がかかり、結果的にそのことで運営に支障が生じ始めたのはこの数日後のことです。他事業体からタンクを借用することや学校など市有施設の受水槽を代用するなど、今ならその代替策も思い浮かびます。地震対策として平成29年2月に三間中学校へ設置した耐震性貯水槽は、発災の日から想定外の形態でその威力を発揮したのでしたが、そのような代替策はその時全く頭に浮かびませんでした。
その他、応急給水所の設営場所によっては、真夏の太陽を遮るものが無いという情報も届いていました。市内のホームセンターで売っているテントやパラソルについても、無駄になってもいいから買い集めるよう指示するなど、少しずつ運営体制の強化に向かっていったのもこの頃でした。
これらはほとんどが局長以下の専決事項ではありましたが、購入額がどこまで積み上がるのか特に心配していなかった記憶があります。宇和島市水道事業の経営状況は決して楽観できるものではありませんが、借金はあるものの貯金はそこそこあったことがこのような心境に至らせたひとつの要因であったのは間違いありません。私の知っている他事業体では、借金は極力しないことを自慢している担当者がいました。ただそこは貯金が無く、非常時のやりくりに対し他人事ながら少々心配な印象を持っていたのです。その非常時は突然、何の前触れもなく襲ってきます。即断即決に耐えうる財務状況を保ち続けてきた業務課、特にたたき上げの鴨脇課長にはあらためて畏敬の念を抱いたものです。
ー この記事の原文は水道産業新聞2020年(令和2年)10月15日版(第5448号)に掲載されたものです ー
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